サトラレと米朝

2002年6月3日
最近見たふたつのテレビ番組。
それらから感じた何か、がいつまでも私の頭
から抜けないのだが、こうして日記に書くの
は難しい。単なる内容の説明になるだけだし、
共通点もなければオチもない。(笑)
しかし、他に何もネタがないので書いてみる
ことにしましょう。

まず、先月の終わりに「サトラレ」という
邦画がテレビで放送された。
ストーリーをここに全部書くと長くなるので
省略するが、「サトラレ」と呼ばれる人達が
日本に7人いて、彼らは言葉に出さない「頭
で考えているだけのこと」「心に思っている
こと」が実はすべて言葉となって回りの人々
に聞こえてしまっているのだが、自分ではそ
れに気づかない。その「サトラレ」にサトラ
レであることを教えることは法律で禁止され
ていて(そんなこと本人に伝えたら発狂して
しまうだろう・・・)回りの人間はサトラレ
の胸のうちが「聞こえないふり」をして生活
することを余儀なくされている。    
“7番目”のサトラレは岐阜県のある街の病
院で外科医を目指す新米医師(安藤政信)。
そのサトラレの実態調査をする為にやってき
た研究員?(この辺の説明がうまく書けない)
鈴木京香を中心に話は進んでいく。    
現実離れしたストーリーではあるが、もし本
当に「回りの人に自分が素通しであり、その
ことを自分だけが知らない」という状態が私
に起こったら・・・絶対社会生活など営めな
いだろう。私はハートもピュアじゃないし、
腹黒な所もあるから会社なんか即クビだろう
し(笑)、大変な人生になっちゃうよなあ
などとずーっと考えていた。

そして、昨夜NHKで放送された落語家で人
間国宝の桂米朝師匠のドキュメンタリー。
私は落語好きなわけではなく、この番組は全
く偶然に見たのであるが、「一芸に秀でる」
というのは単に才能ではなく、まさに「努力」
の賜物なのだということをつくづく感じた番
組であった。上方落語の重鎮として多くの御
弟子さんを抱え、頂点に立っていながらもそ
れに満足せず、自らがまさに身を削るような
稽古の日々。        
一番弟子で後継者であるはずの桂枝雀が「師
匠に近づけない自分の噺家としての技量」に
悩み、心を壊し、命を絶ってしまった無念。
76歳(と聞いた気がする)になり肉体的な
衰えに勝てず、収容人数の多い舞台に出て全
てのお客様を楽しませることに限界を感じて
米朝は“最後の大舞台”に東京の歌舞伎座で
公演を行う。しかし、十八番である「百年目」
という40分にわたる長い噺の内容を途中で
一瞬間違えてしまう。(私はこの番組で知っ
たのだが、落語というのは紙に記された台本
はなく師匠から弟子へ直接口頭で伝達される
もので、頭の中に全て入っていないと出来な
いものらしいです。こぶ平なんかもちゃんと
覚えてるのだろうか?・・・笑。)
アドリブで何とか噺の筋を戻し、それは観客
にもわからない程度の失敗だったのだが、楽
屋に戻ってからくやしさで一杯の表情になる。
インタビューに対し「何も話すことはない。
そこにいる弟子に聞いてくれ。」と言い残し
ヤケ食いのように楽屋で口に弁当を詰め込む
米朝。人を笑わせる為に噺家は密かに涙して
修行を重ねる。その修行には終わりがない。
私には、そんな“頂上の見えない登山”は出
来ない。
芸事の奥の深さにしみじみと感動した。
        
と、いうわけでドラマだけでなく最近テレビ
はよく見ています。他に娯楽がないわけじゃ
ないんですが。        

コメント

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

まだテーマがありません

この日記について

日記内を検索