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五年日記
2004年1月5日大晦日の夜から二日の昼まで、夫と息子とで
私の実家に泊まったが、昨日の午後母が私の
うちに車で迎えに来て、私と息子だけまた実
家へ2日間泊まりに行った。
(夫は6日まで休みなのだが用事があったの
で今回はお留守番)
今日の昼に地元に住む中学時代からの親友と
子供連れで会うことになっていて、彼女にも
6ヶ月の赤ちゃんがいるのでお宅に伺うこと
にしていた。
しかし彼女から愛息のTくんが風邪気味で、
うちの子に移したら悪い・・・という電話が
入ったので、息子は母に預けて私ひとりで親
友の家へ。数時間お喋りをして帰宅し、その
後は母や姪と夕飯を食べたりテレビを見たり
していた。母は父が亡くなってからあらゆる
手続きや葬儀関係のことで忙しくて疲れてお
り、夜も早々に息子と姪を連れて「先に寝る
から」といってリビングを出てしまった。
私はさすがに9時半に寝る気にはならなかっ
たので1人でしばらくぼんやりしていたのだ
が、そろそろ2階へ・・・と思いストーブを
消そうとした時、そばに置いてあった厚さが
3センチほどの固い表紙の本のようなものに
目が止まった。
「なんだこれ、はるか(姪)の百科事典なの
かな?」と思い、特に深い意味もなくページ
をめくって驚いた。
それは、父の日記だった。
「五年日記」というスタイルの日記帳で、1
ページが365日の一日ごとの日付で構成さ
れ、2001年から2005年の“●月○○
日に何があったか”を書けるようになってい
るものだ。
2001年は父が仕事をリタイヤした年。
2002年は甥が誕生し、末妹が結婚した
割と平穏な年。
2003年は・・・自分がガンと知り、そし
て・・・。
父は事細かに毎日日記を書く性格ではないの
で、まったく白紙のページもあったが、そこ
に書かれていたいくつものことに涙が止まら
なかった。
去年の3月1日、産婦人科検診の後で超音波
の写真を持って私は実家に一泊した。
その日の日記には「○○(私)が泊まりに来
たが病気のことは知らせなかった。おそらく
○○にとっては最初で最後の懐妊だろうから
流産させてはいけない。今は知らせないほう
がいいと判断した」と書いてあった。
8月の両親の結婚記念日にホテルの和食店で
個室を取ってお祝いをした日は「結婚40年
祝いを皆にやってもらう。45年、50年と
出来るよう治療を頑張る決意を新たにした」
と書かれ、思わず号泣した。
その他にも、「米寿を迎えた自分の母親(私
にとっては祖母)に小生のガンのことは言え
ない※」とか(祖母はすでに痴呆状態なので、
実は父が死んだことを今も知らないのだ)、
その時々の父の思いや闘病の記録が書かれて
いて、ガンの治療の所は生々しくて飛ばして
読んでしまった。
※父は自分自身を「俺」「私」ではなく、
「小生」と書く人です。
しかし、父の日記には遺言めいた言葉や「自
分が死んだら・・・」というような記述は全
くなかった。やはり、あと5年、10年生き
たいと心から思っていたのだろう。
体調が悪い日など、たった一言「最悪」と書
かれた日もあった。
父が最後に書いた日記・・・それは11月18日。
私の家で息子の退院祝いをやった日だった。
「豪太の退院祝いを○○(私)の家でやる」
もう、だめだ。涙が止まらない。
隣の部屋にある父の遺影の前で泣き崩れた。
(まだ仏壇を買っていないので、葬儀社から
借りている祭壇に父の遺骨と遺影があるのだ)
線香に火をつけ、しばらく泣いていた。
今日でちょうど息子は3ヶ月になった。
一度しかちゃんと会わせることが出来ず、い
くら悔やんでも悔やみきれない。
父がどれだけ心配していたのか、それもよく
わかっていただけに申し訳ない思いでいっぱ
いだ。
私はまだ、立ち直れないままでいるのか。
私の実家に泊まったが、昨日の午後母が私の
うちに車で迎えに来て、私と息子だけまた実
家へ2日間泊まりに行った。
(夫は6日まで休みなのだが用事があったの
で今回はお留守番)
今日の昼に地元に住む中学時代からの親友と
子供連れで会うことになっていて、彼女にも
6ヶ月の赤ちゃんがいるのでお宅に伺うこと
にしていた。
しかし彼女から愛息のTくんが風邪気味で、
うちの子に移したら悪い・・・という電話が
入ったので、息子は母に預けて私ひとりで親
友の家へ。数時間お喋りをして帰宅し、その
後は母や姪と夕飯を食べたりテレビを見たり
していた。母は父が亡くなってからあらゆる
手続きや葬儀関係のことで忙しくて疲れてお
り、夜も早々に息子と姪を連れて「先に寝る
から」といってリビングを出てしまった。
私はさすがに9時半に寝る気にはならなかっ
たので1人でしばらくぼんやりしていたのだ
が、そろそろ2階へ・・・と思いストーブを
消そうとした時、そばに置いてあった厚さが
3センチほどの固い表紙の本のようなものに
目が止まった。
「なんだこれ、はるか(姪)の百科事典なの
かな?」と思い、特に深い意味もなくページ
をめくって驚いた。
それは、父の日記だった。
「五年日記」というスタイルの日記帳で、1
ページが365日の一日ごとの日付で構成さ
れ、2001年から2005年の“●月○○
日に何があったか”を書けるようになってい
るものだ。
2001年は父が仕事をリタイヤした年。
2002年は甥が誕生し、末妹が結婚した
割と平穏な年。
2003年は・・・自分がガンと知り、そし
て・・・。
父は事細かに毎日日記を書く性格ではないの
で、まったく白紙のページもあったが、そこ
に書かれていたいくつものことに涙が止まら
なかった。
去年の3月1日、産婦人科検診の後で超音波
の写真を持って私は実家に一泊した。
その日の日記には「○○(私)が泊まりに来
たが病気のことは知らせなかった。おそらく
○○にとっては最初で最後の懐妊だろうから
流産させてはいけない。今は知らせないほう
がいいと判断した」と書いてあった。
8月の両親の結婚記念日にホテルの和食店で
個室を取ってお祝いをした日は「結婚40年
祝いを皆にやってもらう。45年、50年と
出来るよう治療を頑張る決意を新たにした」
と書かれ、思わず号泣した。
その他にも、「米寿を迎えた自分の母親(私
にとっては祖母)に小生のガンのことは言え
ない※」とか(祖母はすでに痴呆状態なので、
実は父が死んだことを今も知らないのだ)、
その時々の父の思いや闘病の記録が書かれて
いて、ガンの治療の所は生々しくて飛ばして
読んでしまった。
※父は自分自身を「俺」「私」ではなく、
「小生」と書く人です。
しかし、父の日記には遺言めいた言葉や「自
分が死んだら・・・」というような記述は全
くなかった。やはり、あと5年、10年生き
たいと心から思っていたのだろう。
体調が悪い日など、たった一言「最悪」と書
かれた日もあった。
父が最後に書いた日記・・・それは11月18日。
私の家で息子の退院祝いをやった日だった。
「豪太の退院祝いを○○(私)の家でやる」
もう、だめだ。涙が止まらない。
隣の部屋にある父の遺影の前で泣き崩れた。
(まだ仏壇を買っていないので、葬儀社から
借りている祭壇に父の遺骨と遺影があるのだ)
線香に火をつけ、しばらく泣いていた。
今日でちょうど息子は3ヶ月になった。
一度しかちゃんと会わせることが出来ず、い
くら悔やんでも悔やみきれない。
父がどれだけ心配していたのか、それもよく
わかっていただけに申し訳ない思いでいっぱ
いだ。
私はまだ、立ち直れないままでいるのか。
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